【追記あり】その後のあれこれ…

この前書いたパンダの記事
思いがけなく多くの方に読んでいただいたようです。

 

「パンダちゃんが次のすみかで
幸せに生きられますように」

「パンダちゃんは星になったのですね」

「パンダもあちらでのお役目があって
旅立ったのでしょうね」

 

などなど、
たくさんの暖かいメッセージ、
どうもありがとうございました。

 

次のすみか…
星…
あちら…

いろんな言い方があるけれど、
純粋に
それって、どこにあるんだろう?
パンダはどこへ行ったのだろう?
て、思ってしまうのですよね。。

 

弱ってもなお、、、息絶える前夜でさえ
パンダは
食卓についた私のひざに乗りたがりました。

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もう、飛び乗る体力もないのに…

それで、デイヴィッドがパンダを抱いて
私のひざに運んでくれたのですが…。

 

そんなパンダの強い「意志」は
一体どこへ消えたのだろう、て
つい…。

 

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私の両親はそれぞれに
数年にわたる入院生活をしました。

 

いずれも次第に、私にとっては
<病院に会いに行く人>となり、
家にいないのが普通になりました。

 

良くも悪くも、自ずと
送る「覚悟」もできたし…。

 

亡くなったときは、当然、悲しかったけれど
長らく会話もできない状態だったので、

父の、そして母の、
肉体が無くなったことは切実に感じても
私の日常は、さほど変わらなかった気がします。

 

それに比べてパンダは、
ずっと家にいたし
死の直前までコミュニケーションもとれました。

 

それだけに、姿もハートも、
突然消えてなくなったことに
戸惑いを覚えるのです。

 

死とはそういうこと、と言ってしまえば
それまでのなでしょうけれど…。

 

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パンダが日に日に弱って
固形物が食べられなくなってきたとき、
私は心配で押しつぶされそうだったのですが

ある友人が
「だけどそれは、いつか必ず死ぬ動物の
とても自然なプロセスだね」
と言ってくれました。

 

私、この言葉にとても救われてね。

 

パンダ可愛さのあまり
悲観に暮れる<私の物語>にしてしまってたことに
気づかせてもらいました。

 

それが人であれペットであれ、
最後のひと呼吸まで
そのひと本人の、そして
愛犬・愛猫…のストーリなんですよね。

 

側のものが泣いても叫んでも
誰かのストーリーは変えられないということ。

 

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それが、いったん旅立った瞬間から
残された<ひとりひとりの物語>に変わる。

 

失った悲しみとどう向き合うのか。

そのことを通して、自分の
<在り方>、<生き方>をも見つめることへ
物語の主人公も主題も転換される…。

 

そんなことを、しみじみ感じるこの頃です。

 

 

パンダが亡くなった翌日、
庭の一角、
私たちの寝室から目の届くところに
パンダのお墓を作りました。

 

わんぱくなパンダはよく
庭の草木の下に入り込んでは
青紫の小花を体じゅうにつけて
帰ってきたんです(笑)。

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そんなパンダにちなみ
お別れにあたって、

デイヴィッドは自分のシャツに
同じ小花をくっつけ、
そして私の髪にもつけてくれて。

 

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たくさんのお花と
パンダが大好きだった小エビ、
それにお気に入りのおもちゃも
一緒に入れました。

小さな、だけど特別なセレモニーでした。

 

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以来、毎朝庭でお花を摘んで、
お墓と、
パンダが最後に力つきた洗面所に供えるのが、
新しい日課となっています。

 

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今日は、たまたま見つけた
アルファベットに見えるコーラル…
P、A、N、D、Aを
デイヴィッドに頼んで墓標につけてもらいました。

 

私が思いついて、
デイヴィッドも賛同してくれたのですが

出来上がった墓標に
ふたりともギョッとしてしまいました。

 

というのも、

これを見ると、もう
パンダはどこからどう見ても
過去の存在なのです。

 

二度と帰ってこないとわかっているけど
その現実にNOと叫びたいはずの私たちが、

自ら
パンダが存在<した>と墓碑を建てた…

 

一体、何してるんだか。

 

愕然としつつ、
こうしてパンダは
歴史となっていくことを悟りました。

 

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【追記】

自分の手で、認めたくない事実を
認めざるをえなくしてしまいましたが、

これは、悲嘆から回復へ向かう
「グリーフワーク」のプロセスを考えると
とても大切なキーポイントだったと思います。

 

なぜなら、
この絶望的な境地を経験しないことには、
回復したくても
回復に向かえないからです。

 

いや、回復したところで
何事もなかったかのように痛みや悲しみが
消えるわけではないでしょう。

 

だけど、絶望のなかで味わった
<どうしようもない気持ち>や

自分の力では動かしようのない現実を認め
<あきらめ>を知ることは

人としての幅を広げてくれる
とてつもなく深い経験のはず。

 

これを成長と呼ぶのだとすれば
どれだけ辛くとも
人生に無駄は一つもないって
励まされるのです。

 

 

 

 

 

 

3件のコメント

  1. YURIKOさん。

    計り知れない喪失感と闘っていらしたのですね。

    私の些細な葛藤とは比べものにならないくらい

    大きな大きな破壊と再生のプロセスを体感されたのですね。

    どんなにか苦しまれたことでしょう。
    お辛かったでしょうね。

    それでも、ご自分の心と、変化の過程をしっかりご自分で見つめられて

    自らを成長させる道を見据えていらっしゃる姿に

    心が震えました。

    やはりたくさんの方を受け入れ、導いてこられてきた方には
    きっと、たくさんのサポーターが見守って下さって、

    尚且つ、ご自身にも自らを立ち上がらせる
    力強い再生のパワーが宿っているのだと感じました。

    きっとパンダちゃんはそのプロセスによって
    再生されていくYURIKOさんの姿を

    喜んで見守ってくれているような気がします。

    私も、心に栄養を頂いた気分です。

    ありがとうございます。

    1. よーこさん、
      どうもありがとうございます。

      やっぱり何があっても向き合うしかないと思うんです。

      何かで気を紛らわして直視しなかったり、
      「自分はまだマシな方」と無理に納得させても、
      根っこは癒えないしね。

      先送りする間にも、傷は深くなりかねないし
      そうなると、もっと大変だから。。

      実は、喪失感の他に
      大きな罪悪感がありました。

      時間が経つにつれ、こちらが大きくなって…

      自分に気休めを言って納得させようとしても
      「それは話のすり替えでしょ」と心は見やぶりました。

      もう、毎日がどん底で…

      でもね、誤魔化さずに向き合い続けたら
      鉛のように重い「しこり」だった罪悪感を
      溶かして、流すことができたんです。

      それでやっと軽くなって
      (寂しさは消えませんが)
      ようやく未来に目を向けることができるようになりました。

      具体的なことは、まだ生々しくて綴る勇気がありませんが
      いつか機会があれば…。

      運命を受け入れる、という意味では
      あきらめを知らなければなりませんが、
      自分に対しては、
      あきらめたら、そこで成長が止まってしまうと痛感です。

      同時に、よーこさんが言うように
      そう気づけたのもサポーターのおかげなのかと。

      もう全てに感謝です。

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